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出版までの長い道のり

眠れぬ夜の土屋の日本史

1.はじめに

 10月24日。早朝から代々木ライブラリー本店には人があふれていた。店内は騒然となり、授業開始10分間にもかかわらずその列はいっこうに減らなかった。同じ日の午後、旺文社では緊急の会議が開かれ1万部の増刷が決定された。旺文社の在庫が底をつき、取次ぎの発注に応じきれず欠本を生じていたためだ。初日の実売が3000冊を超え、ジュンク堂書店ではその週の全書籍の売上ランキングは28位にもなっていた。

  学参史上例のないこの事態は、いくつもの学参の常識を覆したからこそ起きたものだということをこの本に携わった方たちは気が付いている。しかし、私が覆した常識のひとつは 何かといえば、「顧客が1冊で満足できない本をだす、ということをやめる」というごくあたりまえのことであった。

  学参市場は毎年縮小を続けているという。出版業界はその原因を安易に学生数の減少と学力低下で片付け、ひたすら製造者責任を回避しつづけていた。売れないモノを作って顧客に押し付ける商売などもはや成り立たないことはアパレル業界が10年も前に身をもって(倒産という非常に分かりやすい例をもって)証明してくれたはずである。モノをつくる側がこだわりを無くし、顧客のニーズとかけはなれたものをつくっていても売れる時代は終わっているのである。もう10年も前に・・・。

  これから私がお話することは事実である。事実であるがゆえに目を疑いたくなることが書かれているかもしれない。しっかりと読んで賢い消費者になってほしい。賢い消費者が世に増えれば、いい加減なモノをつくる人間がいちはやく市場から淘汰され、結果的に生活を真に潤す消費財がそこかしこにあふれ満ち足りた人生を過ごすことができるのである。理不尽な常識と、子供の不安を原資とするモノづくりや販売法は明らかに常軌を逸するものであり、それは紛れもなく近い将来自分達をも破滅に追い込む両刃の剣である。いいモノをつくる過程にはそれを手にとった人を豊かにさせたいという「思い」があるはずである。

  ここを読んでいるのは私の教え子や本の購入者だけではないと思う。このメイキングが賢い消費者を生み出すのみならず、信頼される製造者となるためのヒントをあたえる一助となれば幸いである。

2.メディアミックスの誘惑

 数年前のある休日、私は上野にいた。予備校のパンフレットに掲載する写真と取材を受けるためである。前日、珍しく東京に大雪が降り、撮影が危ぶまれたが当日は温かく、私もスケジュールが詰まっていたこともあり1時間程度の遅れで撮影が始まった。

 その予備校は有名講師を前面に出し生徒を集めることをビジネスモデルとしている。新聞や電車の広告で有名講師とされる方を大々的に宣伝し、多くの集客をねらうとうものだ。もちろん、講師の方も相応の実力をお持ちの方が多く、宣伝につられて受講した生徒もある程度の学習を行っていれば第一志望には合格できたであろう。「私も有名講師の仲間入りかぁ」などと妄想を膨らまし、薄笑いをうかべながら上野駅の改札を出て撮影場所に向かったのを覚えている。思い上がっていたといえばはっきりいってそうであった。

 撮影が終わり、近くの喫茶店で取材の続きを受けることとなった。しかし、そこには出版関係の方(確か部長クラスの方だったと記憶している)もいて、短い挨拶のあと「土屋先生なら対面と衛星受講者をあわせたら大変な数になります。是非とも当社から本をご出版されてみてはいかがでしょうか」続けて、「本をご出版されるのは土屋先生のような衛星にご出講される先生にとっては先生を知らない受験生に名前を知ってもらういい機会です。」と、きりだされた。わざわざ休日返上で上野まで出向き、私の撮影が終わるまで喫茶店で待っていて、私に頭を下げて本を出版してほしいというのである。私が恐縮していると、そばにいたもう一人の方が「仮に本が10万冊売れれば印税(本の価格の7~9%が相場。1000円の本なら80 円程度)が年間800万円の印税ですよ。何冊か本を出版すれば年収は軽く倍となります」—メディアミックスというのだそうである。まあ、早い話が相乗効果で、出版社も儲かるし、予備校も生徒が集まるし、私も名前が売れるばかりか印税まで手に入るという三方一両得どころか三方大儲けといったところである。

 

  私も数年来あたためていた本の企画はいくつかあった。(もちろん、そのひとつが今回の参考書である)たとえ商売とはいいながら、ここまでして本を出版してほしいといわれたのははじめてであったので気持ちが揺れたことは事実である。もちろん、10万冊は別としても正直印税収入は当時の私にとっては魅力であった。

  しかし、ビジネスは必ずエブリワンハッピーとならなければ成功しない。たとえ一時的に成功しても決して長続きしないのである。このモデルには大きな問題があった。 メディアミックスではそれが回り始めると確かに効果絶大である。20年前角川書店は映画と書籍を組み合わせて本や映画の売上を伸ばした。メディアミックスの先駆けともいえるだろう。一方、先ほどの相乗効果はある時期がくると授業と本の内容が似通ってくる。社会科系では特にその傾向が強い。多くの本を書けばそれだけ、授業の内容に近づいてしまうわけである。理屈でいけば授業にでなくても本だけで大学に合格できることになる。内容が同じであれば、いつでもどこでも学習できる本のほうが便利であり、また授業で本の内容と同じことをやれば、受講生に本を薦める理由がなくなってしまう。

  永遠に回りつづけることのない相乗効果。誰が一番損をするのかは明白である。講師?いやいやそれは受験生自身である。 なぜなら、講師の授業と同じクオリティをもつ本がつくられなくなり、演習解説系の本ばかりを手にすることになるからである。

  置き去りにされる顧客ニーズ。出版される本はいつしか講師の名前を他に知らしめる媒体としてのみ存在するようになり、結局本の売上を大きく減らしていく。「自滅」とはよくいったものである。年間の社会科学参の売上の上位に予備校の社会科講師の名前がないのはまさしくその証左ではないだろうか。本はその中身だけではなく、意図された媒体としても使われることを消費者は心しておかなければならない。

  その予備校とは縁がなく、翌年代々木ゼミナールへ移籍することとなり出版の話は立ち消えとなった。しかし、その予備校での1年間はすばらしい衛星スタッフといい生徒にも恵まれて気持ちよく授業を行えた、まさに充実した年であった。

3.顧客ニーズを肌で感じ取れる場

 かつて在籍していた予備校の講習で、かけだしのころから常に担当していた講座がある。史料講座である。当時のかけだしの私にもやらせる講座であるからさして生徒もこないのだろうと思いきや100人程度は常に受講生がきていた。 入試も押し迫った頃の講座であるので演習系であるが、解答・解説していくとみな答えを写している。予習が前提の講座であり、答えなど写して暗記してもそのまま出題されるとは限らない。気になって何人かの生徒に聞いてみると、ある程度までは知識があるが、どこがどの程度の頻度で出題されるか知りたくてきたようだ。さらに「ある程度まである」という時代の知識も怪しいものであった。急遽プリントを作成し、入試に必要な史料とその史料が問われる時代の概要を解説すると大変満足してもらえた。「なるほど。史料と時代の概要がひとつになると便利だな」今回発売した史料参考書のコンセプトが生まれた。

 モノをつくり販売するにあたり大切なことのひとつに顧客ニーズがある。市場が存在していてもニーズがなければモノは売れない。このニーズを知るために企業はしのぎを削るのである。「アンケートに答えてハワイ旅行をゲットしよう」などの類は顧客ニーズを調査するためにやっいるのである。また、気が付きはしないが、買い物などをした後のお店の記録からも顧客ニーズを調べることもできるのだ。私達が何気に手にとってしまう品々の多くは時間をかけて集められた顧客ニーズをさらに厳密に検討したうえでつくられているのである。「いいモノ」とは作り手側にとってのモノのクオリティが高いだけではなく、顧客側にとっての心地よいものでなければならない。

  予備校の講師は幸いにも顧客を目の前にして授業をしている。受験生も立派な顧客である。この顧客なしにはわれわれの商売は成り立たない。しかも彼らは何を必要としているのかを常にこちらに向けて発信している。大手の企業なら数億円だしてほしがるニーズを毎回出しつづけてくれているのである。

 奢るなかれ。常にゆとりある心でそのニーズをつかみ、モノをつくっていく。顧客がほしいモノは作り手の「こうでなければいけない」という押しつけや推測でつくってはいけない。書籍を出版したいと思ったのはこうした気持ちを持ちながら史料講座を数年続けた時であった。

  しかし、書籍はその5年後に出版されることになる。なぜ、そんなに長い時間がかかったのか。それは、アイディアだけではモノは売れないという現実に直面したからである。

4.モノが売れるための市場規模

  旺文社のY氏に聞いた話によると、私の史料参考書の企画に関して当初、社内のある方が「史料なんて売れないから断ってしまえばいい」と言ったそうである。「史料関連の本は売れない」ということは学習参考書をつくる出版社では常識とされてきた。もちろん、過去の出版経験から導き出されたものである。

 顧客ニーズがあり、クオリティの高いモノをつくっても、買う人間が少なければ会社の利益にはならない。折りたたみ自転車を考えれば分かりやすい。アウトドア派を中心にニーズはあるが、限定された環境でしかニーズを満たせず、市場規模が小さい。市場規模が小さければ売上が伸びずに会社にとってはコストのわりには利益をださないお荷物となってしまう。その結果、製造者は市場が大きく、大きな収益がみこめるモノをつくりたがるのである。出版の世界で言うなら学参なら通史の参考書か近現代を出版したいといったところであろう。

  実は この史料参考書を出版する前にある出版社の方に別な本の企画を出したときも「日本史初心者の分かりやすい近現代の参考書なんかが売れるんですけどねぇ」と 嫌みっぽく言われたことをおぼえている。もちろん、相手は私にいやみを言うつもりなどなく、市場規模の小さいところでは利益を上げられないと言いたかったのであろう。

 しかし、出版社は学参の売れる、売れないを判断する市場規模を厳密に調査しいるわけではなかった。過去の経験から思い込んでいただけなのである。また、売れ筋だと思っているものでさえ、実際には市場での競合や同じ出版社内でのカニバリズム(食い合い)で売上が期待以上にあがらないことに気が付いていない。売れると思ってその市場に居続けるのであるが、市場参加者が増えた分市場が分割されてしまっているのである。

 顧客ニーズを無視し、かつ市場規模を正確に把握することなく、モノを乱造していく。この愚行を繰り返した結果、市場が荒廃し製造者は自らの収益を減らしていったのである。学参市場が小さくなったのは学生数が減少したからではない。製造者側が市場を荒らし、消費者を混乱させて市場によりつかせなくしてしまったからなのである。

  環境破壊にも似ているこうした企業の経営姿勢を私は「焼畑農耕型経営」とよんでいる。焼畑農耕では定住生活などおぼつかない。土地はやせ細り、いつかは自分達がそこから退場する運命にあるのだ。

  市場規模が小さくともその市場でのシェアを大きく奪うことができれば大きな利益を上げることができる。いまや企業が新たな収益源を求めて必死になってさがしているこの市場をニッチ市場という。ニッチ市場はどの産業でも必ず存在するものである。

  私は日本史学参においてそれが史料であることを5年前に確信していた。

  しかし、時代の概説と史料とをつなげるだけのアイディアでは市場のシェアを奪いとるだけインパクトはない。当時、史料関係の書籍といえば、完全な史料集か、問題演習的なもので占められており、その中庸をいく私の史料参考書はどっちつかずとなる恐れがある。

  何かが足りないのである。その何かが分かれば市場のシェアを奪うことができるのである。パソコンがようやく家庭にも登場した頃のことである。

  しかし、書籍はその5年後に出版されることになる。なぜ、そんなに長い時間がかかったのか。それは、アイディアだけではモノは売れないという現実に直面したからである。

5.常識の落とし穴

 かつて、受験英語の世界で常識であった1冊で英語を学習するというスタイルを打ち破り英文法や英作など分野を分けて出版したのは代ゼミの英語講師だったと聞く。当初は大学の教授からも知識の切売りだと批判を浴びたが、瞬く間に売上げを伸ばし、あっという間にスタンダードとなったそうである。分野を分けた方が、1つ1つのクオリティが高まり、解説も十分できるため受験生のニーズにかなっていたからであろう。もちろん、英語だけではなく、それは他の教科にも波及していった。そして、誰もこの分野をわけた本の出版に疑問をもたなくなったのである。

  分野わけをしていた当初は受験生の学習をより充実させるために本はつくられていたはずである。しかし、一旦それが常識とされると、それは受験生のためというよりは営利を追及する手段として使われてしまうことが多い。まとまった1冊の本を3000円で売るより1500円の本を同じ人間に5冊売ったほうが製造者の利益は大きい。5冊を買わせることを前提としてモノをつくるなら5冊は内容が重複しないようにつくったほうがいい。顧客のためにそうするのではなく、「売るために」そうするのである。

 日本史ではいつしか通史・文化史・史料・論述、最近では近現代史、という分野わけが存在している。そしておのおの干渉せずにうまい具合に棲み分けがなされているのだ。

 なるほど、これなら文化史や史料・論述が演習系となり時代解説がなされていないのが分かる。時代解説を加えてしまえば通史や近現代史の本を買ってもらえなくなるおそれがあるからである。全てを買わなければ学習が完結しないというやり方は当初、分野をわけて充実させた学習を行わせようとした目的とは明らかに乖離(かいり)している。本末転倒とはこのことである。

  半ば常識化したことを利用し顧客ニーズにあわない本はこうして作られていった。売上げはゆっくりとしかし確実に落ちていき、結果、史料や文化史のなどの分野は売れないことが、製造者の「常識」となった。

  しかし、その程度の「常識」など思い上がった製造者の詭弁でしかない。常識など所詮混沌とした大世界のたった数個の同元素を集めて周囲の同意を得ている集合に過ぎないのである。それゆえ「常識」という集合は無限に存在しうるはずである。

  それを、自分達の集合だけを世界そのものと錯覚し、他を「非常識」と決め付け、排除しこそしないが認めることは絶対しない。製造者の理不尽な秩序意識と貧相な防衛本能が顧客ニーズとはかけ離れたモノをつくることを加速させてしまった。

 私はこの常識化している分野わけを疑ったのである。他教科はいざしらず、日本史に関して分野わけは本当に必要なことなのだろうか。それは、現在の入試において本当に受験生の学習スタイルにあっているのだろうか。

  目的がひとつ(大学に合格できる日本史の知識をつける)であるなら、あれこれ振り回されず集約した学習のほうが効果的である。通史でも史料の学習ができたり、史料でも文化史の学習ができるほうが受験学習にはいいのではないか。根源的には受験生の学習スタイルこそが間違っていたのではないか。

  いままでにない受験スタイルを提案しそれに合致する教材を提供することこそが顧客を最も満足させられると私は確信した。作り手から提案する新しい受験スタイル。—「スタディクール」—そのスタイルに合致した教材こそが新しい常識となるはずである。

6.デザインの重要性

 「この使えるっ!という文字が入っている丸を大きくして色はもう少し濃いオレンジにしてください。それと、4大特典部分の色を帯の緑より薄い色にしましょう。」私はY氏に伝えた。隣には宮崎県の高校在学中から私がその能力を高く評価している女の子が色彩図とにらめっこをしている。濃いオレンジといっても数種類あるのだ。彼女が持つ独特のデザインの世界からベストな色を探しているのだろう。

  もう、この作業に2日も費やしている。Y氏はたまらず、「いちおう土屋先生のご要望はデザイナーに伝えますが、デザイナーにもなんというかプライドみたいなものもありますから、要望の全部を反映してくれるとは限りませんよ。」さらに、私の隣で色と格闘している彼女に向かって「あなたもデザイナーの卵ならわかるでしょう。自分がつくったデザインを他の人間にとやかく言われるのはおもしろくないことが。それに・・・。」

 私はその話が終わる前に反論していた。「この表紙のデザインのクライアント(依頼者)は私たちですよ。だったら私たちの気に入るように作るのがプロでしょう。表紙のデザインだけを作ったデザイナーが自分で売るなら文句をいいませんよ。でも、この本の表紙はあくまで本の購入者に関心をもってもらうためのものでなくてはだめなんです。それでもこの修正を嫌がるなら別のデザイナーにやってもらえばいいでしょう。」

 旺文社では今まで表紙のデザインを変更することなどあまりなかったのであろう。食品でいうなら容器のデザインを他人にまかせっぱなしにするという行為に等しいことを平然と行っていたことになるのであるが・・・。

 消費者の購入意欲とデザインには密接な関係がある。思わずわれわれが手にしてしまう魅力ある商品(少なくともデザイン上)は実は何度もデザインを検討し、修正したものであることを知っているだろうか。それをおろそかにした多くの製造者がその市場から退場したことも。

  もちろん、中身も重要である。見掛け倒しではロングヒットなどおぼつかない。しかし、競合する同種の製品のなかでその中身の差別化が難しくなっている今日、魅力的なデザインで消費者にうったえることの重要性を認識し行動した製造者だけが成功している。消費者に商品イメージを伝えながら商品を認知させ、最終的に製造者の提案を受け入れてもらう。そのすべてがデザインに凝縮されているのだ。

 コンビニに並んでいるお茶の前に立ってみればそれを理解できる。また、中国緑茶や聞茶のようにお茶のパッケージデザインをイメージ化したCMすら作られているのである。

 デザインなど受験には関係ない。商品イメージなど参考書には必要ないのだと考えてるデザイナーや製造者が存在しているとすれば、それはまさしく不安を原資とした商売で思い上がり、かつ豊かでありたいとする消費者の思いを踏みにじっていとしか思えない。

  すべての商品デザインにはそのデザインとなる理由が存在する。プライドや長年の勘などというちんけな理由ではない。そんな基本的なことすらおざなりにしているデザイナーならこちらから願い下げである。

  クライアントの提案にいちいち腹を立てプライドだけで商売をしたければ芸術家にでもなればいいのである。芸術家は自分の好きなものだけをつくり、特定の人間が評価する。デザイナーは依頼者と消費者に好まれるものを作り、そのデザインをのせた商品を購入する多くの消費者に評価されるのである。

 Y氏は私の意見を十分にデザイナーに伝え、表紙が完成した。シリーズものゆえ、デザイン上の制約があるが、シリーズものゆえにデザインを統一しなければならない理由は明らかではない。今回は発売日も迫っていたことからシリーズ化したデザインを変える交渉はできなかったが、話し合いは継続していきたいと思っている。私はこの本の全体的なデザインに関しては正直納得がいっていない。

 「でも、土屋先生。この“使えるっ!”っていう言葉はなんか、こちら側から使えるなんていうのはおかしいんじゃないですかね。ちょっとごう慢というか押し付けがましいというか・・・。」Y氏が鬼の首をとったように私にいってきた。おそらく、顧客のことを考えたら商品名に押し付けがましい名前をつけるべきではないと考えたのであろう。私はY氏の顔をゆっくりみてこう答えた「じゃあ、レンズつきカメラに “写るんです”って名前をつけた会社は倒産しましたか?」Y氏は黙ってしまった。商品名がもつ別の役割に気が付いたのである。

7.商品名の役割

  「土屋先生。この“使えるっ!”っていう言葉はなんか、こちら側から“使える”なんていうのはおかしいんじゃないですかね。ちょっと押し付けがましいというか・・・。」Y氏が私にいってきた。私はこう答えた「じゃあ、携帯用のレンズつきカメラに“写るんです”って名前をつけて消費者はその商品を買いませんでしたか?」

 「写るんです」は富士写真フィルムが1986年に発売したレンズつきカメラの商品名である。他社のレンズつきカメラにも商品名がついていたはずであるが、みなさんは覚えているだろうか。 “写るんです”はその機能もさることながら奇抜な商品名でレンズつきカメラの代名詞となり、富士写真フィルムに莫大な利益をもたらした。

 カメラなのだから写るのは当たり前である。当初は「写るんです」というネーミングでは何か写らないというネガティブなイメージを消費者に与えるのではないかと、猛反対をくらったそうである。反対した人間は「コンパクトカメラ」とか「ポケットカメラ」などという名がよいと思ったのであろう。

 フィルムを補充しならが1つのカメラで被写体を撮ることが普通の時代に、海、山などの観光地で急に写真を撮りたくなるニーズを読み取り、コンパクトな使い捨てのカメラを発売した先見性には驚かされるが、何よりもその商品名に「写るんです」という当然のことばを使ったことこそ、この商品が爆発的に売れた理由がある。

 「写るんです」はまさに、消費者の疑問にたいする製造者側の答えなのだ。「このカメラ、フィルムも入れないのに写るの?」、「写るんです」。もう、お分かりだろう。新しい商品に感じる消費者のささいな疑問、不安にずばり答える商品名となっている。消費者はこの商品名に安心するとともに商品名はかくあるべきという期待に反した心地よい裏切りを喜んでいる。くどくどした商品説明などいらない。消費者はコンパクトカメラを使う場面ではまさに「写せるもの」を要求しているのだ。「写るんです」は消費者のその声無き心の渇望をみごとに満たした商品名だったのである。

 とかく商品名にはその商品のカテゴリー(「○○カメラ」とか「○○チョコレート」など)をつけることが多いが、そうしたカテゴリーに属さない商品名はある一定の条件を満たすと類似の商品の代名詞となり、その商品を広く消費者に知らしめる効果をもっているのである。

 同様のことが史料参考書にもいえないだろうか。と私は考えた。受験勉強において受験生はまさに、本当に使える史料集や史料問題集を探している。心の奥ではそうしたものにめぐり合えないもどかしさやいらだちがあるはずだ。ならば、そのもどかしさ、声無き声に答える商品名をつけてみようと考えたのである。「使えるっ!」でいこうと。

 さらに、「使えるっ」!の「っ!」に日本語の歯切れのよさ、そうした本にはじめてめぐりあえたときの消費者の喜びを表現してみたのである。また、濃いオレンジ色で囲んであるのは、それを文字として読ませるだけではなく、色も含めたデザインとして表紙上で主張させてみようと考えた。「っ!」だけでも私はこだわっていた。

8.デザインの重要性 ー 妥協なきモノづくり ー

 8月のある日のことである。「この史料の訳の【 】は史料の語句の真下にくるようにしてください。それと( )の前後の隙間は必ず詰めて見やすくしてくださいね」これに対しY氏はデザイナーとの間で板ばさみにあっていたようで、「でも土屋先生。史料の訳の【 】を厳格に真下に置くことは無理じゃないですかね。デザイナーにも聞いてみないと・・・。それに少しくらいずれていても問題ないんじゃないですか」実はこのような不毛なやりとりが私とY氏とデザイナーの間で3度も行われていた。

 私はたまらず、「少しくらいずれても問題ないと思っているのはあなたたちでしょう?そのずれでやりにくさを感じるのはこの本を使う子供たちなんですよ。あなたの子供がこの本を使っていてやりにくさをあなたに訴えたとき、あなたは自分の子供に、同じことが言えるのですか」といったことを覚えている。続けて、「ちょうど真下にできない、できないといっているが、火星までロケット飛ばして帰ってくこれる時代にそんなことができないわけないじゃないか。できるできないの話ではなくて、この仕事を続けるかやめるかとうことで話をしてくれ」

 本人の名誉のためにいっておくが、Y氏は決して無能なサラリーマン編集者ではない。人それぞれタイプが違うが彼は間違いなく優秀な編集者である。編集者は著者・デザイナー・営業・印刷所とをとりもつ抜群の調整能力がなければ勤まらない。だからこそ、彼はいままでのやりかたで他と波風を立てずに作品を完成させようと必死になっているのだ。しかし、人間どうしの調整をするためにモノづくりに妥協をしては本末転倒である。これは人間と人間の仲をとりもつゲームではない。いかに多くの人たちに買ってもらえるモノをつくるかというサバイバルなのである。妥協はすなわち、モノのクオリティを低下させるだけではなく、時には状況判断を誤らせて売れない原因をつくることにもなりかねない。モノをつくるために妥協なき姿勢をもつことは、結局は製造者のリスクを低減させるものなのだ。

 もちろん。コストとの兼ね合いもあるであろう。消費者が要求する価格よりもコストが上回っていては商売にならない。だからといって既存の常識にあぐらをかき「コストがこれだからこの程度のことしかできない。」といって妥協していては、消費者にそっぽをむかれ、結局、製造者に利益をあたえない。厳密に計算されたコストの中で消費者ニーズに応えた妥協なき努力を常に製造者側が行わなければならないのである。

「そうはいってもですね。この本はそれでなくても予定よりページ数が増えているわけですよ。それをデザイナーに無理を言ってこちらの提示した報酬でお願いしているわけで・・・。」

 もう、いい加減にしてくれ。っと私は内心思っていた。当初の値段でできないというのならデザイナーはこの仕事を断ればいいし、報酬の増額を要求するのならこちら側の提示した報酬でやってくれるデザイナーをコンペでさがせばいい話である。どうしてもその人にやってもらわなければならない理由などこちらには無いのである。こちら側が相手の懐具合に気をつかう話ではない。また、この仕事で十分な報酬が支払えなかったので他の仕事を継続して紹介するというやりかたは、互いの馴れ合いを生み、結局長期的にみるとコスト高につながり、クオリティもあがらないことを製造者は知るべきである。「情」も大切だが、キャッシュフロー経営が健全に行われてこそのものである。

9.参考書の写真の人物

 8月のある日のことである。「この史料の訳の【 】は史料の語句の真下にくるようにしてください。それと( )の前後の隙間は必ず詰めて見やすくしてくださいね」これに対しY氏はデザイナーとの間で板ばさみにあっていたようで、「でも土屋先生。史料の訳の【 】を厳格に真下に置くことは無理じゃないですかね。デザイナーにも聞いてみないと・・・。それに少しくらいずれていても問題ないんじゃないですか」実はこのような不毛なやりとりが私とY氏とデザイナーの間で3度も行われていた。

 私はたまらず、「少しくらいずれても問題ないと思っているのはあなたたちでしょう?そのずれでやりにくさを感じるのはこの本を使う子供たちなんですよ。あなたの子供がこの本を使っていてやりにくさをあなたに訴えたとき、あなたは自分の子供に、同じことが言えるのですか」といったことを覚えている。続けて、「ちょうど真下にできない、できないといっているが、火星までロケット飛ばして帰ってくこれる時代にそんなことができないわけないじゃないか。できるできないの話ではなくて、この仕事を続けるかやめるかとうことで話をしてくれ」

 本人の名誉のためにいっておくが、Y氏は決して無能なサラリーマン編集者ではない。人それぞれタイプが違うが彼は間違いなく優秀な編集者である。編集者は著者・デザイナー・営業・印刷所とをとりもつ抜群の調整能力がなければ勤まらない。だからこそ、彼はいままでのやりかたで他と波風を立てずに作品を完成させようと必死になっているのだ。しかし、人間どうしの調整をするためにモノづくりに妥協をしては本末転倒である。これは人間と人間の仲をとりもつゲームではない。いかに多くの人たちに買ってもらえるモノをつくるかというサバイバルなのである。妥協はすなわち、モノのクオリティを低下させるだけではなく、時には状況判断を誤らせて売れない原因をつくることにもなりかねない。モノをつくるために妥協なき姿勢をもつことは、結局は製造者のリスクを低減させるものなのだ。

 もちろん。コストとの兼ね合いもあるであろう。消費者が要求する価格よりもコストが上回っていては商売にならない。だからといって既存の常識にあぐらをかき「コストがこれだからこの程度のことしかできない。」といって妥協していては、消費者にそっぽをむかれ、結局、製造者に利益をあたえない。厳密に計算されたコストの中で消費者ニーズに応えた妥協なき努力を常に製造者側が行わなければならないのである。

「そうはいってもですね。この本はそれでなくても予定よりページ数が増えているわけですよ。それをデザイナーに無理を言ってこちらの提示した報酬でお願いしているわけで・・・。」は、互いの馴れ合いを生み、結局長期的にみるとコスト高につながり、クオリティもあがらないことを製造者は知るべきである。「情」も大切だが、キャッシュフロー経営が健全に行われてこそのものである。

 もう、いい加減にしてくれ。っと私は内心思っていた。当初の値段でできないというのならデザイナーはこの仕事を断ればいいし、報酬の増額を要求するのならこちら側の提示した報酬でやってくれるデザイナーをコンペでさがせばいい話である。どうしてもその人にやってもらわなければならない理由などこちらには無いのである。こちら側が相手の懐具合に気をつかう話ではない。また、この仕事で十分な報酬が支払えなかったので他の仕事を継続して紹介するというやりかたは、互いの馴れ合いを生み、結局長期的にみるとコスト高につながり、クオリティもあがらないことを製造者は知るべきである。「情」も大切だが、キャッシュフロー経営が健全に行われてこそのものである。

 かくして史料参考書は完成へと進んでいった。お手元にある本の史料部分を見てほしい。【 】などは、印字上の制約をのぞけば真下にきていることがわかるであろう。やろうと思えばできるのである。妥協なきモノづくり。それは、モノを手に取った消費者を常に思い描きながらおこなうものである。

10.遊び心

 「使えるっ!日本史史料と解説」は実は三部構成になっていることにお気づきだろうか。

  効率よい史料学習を進めるため、解説と史料を分け、おのおのを関連付けさせながらも切り離して独立しても学習できるようにもしてあることには学習をすすめている受験生であるなら誰しも気がついているであろう。しかしこの史料参考書はさらに袋とじで「初見史料対策」がついている三部構成である。この袋とじという形で三部構成にした理由は決して小さくない。

 7月某日。私は史料参考書の構成について悩んでいた。入試で出題される史料はほぼ網羅した。しかし、難関私大などで出題される初見史料はどのように学習させたらよいだろうか。そうした史料を学習する機会は受験生にはない。結局他教科(古文)と歴史語句相互の関連付けができる経験値の高い者(つまり浪人)が有利になってしまうのではないか。難関私大を目指し、史料学習を進める受験生はつまるところ初見史料が解けるようになりたいはずである。とすると、それらを解説していない史料参考書はそうした受験生のニーズを満たしていないのではないか、と。

 しかし、一方で難関私大を受験しない受験生もこの参考書を購入するはずである。出題されもしない初見史料の解説など、そうした学生にとっては邪魔なことこのうえない。必要な史料だけあればいいのであって、初見史料などはできれば見たくないと思うことだろう。

 矛盾する、正反対のニーズが私にのしかかったのである。見たくない人間には見えず、学習したい人間に詳しい解説が見える。それを1冊にした史料参考書など作れるのであろうか。

 答えは簡単であった。動作を起こせば見えて、起こさなければ見えないつくりにすればいいのである。つまり、通常は見えないようにしておいて、見たい人だけがある動作を行うと見えるようになる。袋とじ。そうだ袋とじでいこう、と私は考えた。

 ヒントはファミコン雑誌のゲームソフト攻略法であった。ファミコン雑誌には発売直後のゲームソフトの攻略法が載っている。もちろん、買わないで立ち読みされたらその雑誌を出版する会社は儲けにならない。そこで、人気ソフトの攻略法だけを立ち読みでは見にくい袋とじでという方法によって掲載していた。

 別に私は初見史料の解説を立ち読みされたくないから袋とじにしたのではない。「見にくい」ということは、ある動作を行わなければ見られないということであり、その時の動作主の目的は「その内容を必要とするから」であるはずだ。これならば、1冊の本で正反対の異なるニーズを満たせるのである。すでに参考書を購入されてもまだ袋とじを開けてご覧になっていない方も多いことだろう。

 Y氏は当初「袋とじにする必要はあるんですかねぇ。」といぶかしげな顔つきで私に言った。もう、史料と解説という二部構成という形で、CD付き。史料集でありながら文化史なども学習できるという内容に、Y氏はあれもこれもてんこ盛りでは軸がぶれるのではないかと心配したのである。後日談だか、Y氏はこの本の企画を通すにあたり、この本は従来の参考書の枠から外れた「飛び道具」だとして関係者の了承をいただいたそうである。「飛び道具」とは聞こえがいいが、参考書かくあるべきという形から外れた「邪道」だということである。

  つくられるモノに「正道」「邪道」があるとすれば、それを決めるのはやはり消費者であって製造者ではない。たとえ既成概念から外れた「邪道」なモノがあったとしてもそれが多くの消費者のニーズに沿うものであれば製造者はそのニーズに沿うものをつくるべきである。米を研ぐことを常識として、「無洗米」を邪道な食べ物として製造しない業者は10年も経たずに市場から消えるであろう。私はこの参考書で「研いでも研がなくても食べられる米」を袋とじという手法を使って実現したのである。

  しかし、見なくてもいい人間がその袋とじを開けてしまうことだってあるのではないか。そう読者の方は思われるかもしれない。そんなにお前の思うとおりになるはずがない。そんなにうまくいけば誰も苦労しないだろう、と。いいではないか。見るなといわれれば見たくなるのが人間である。人気ゲームソフトを持っていなくても、攻略法を見たいと思う人間は大勢いる。必要ないが、袋とじを開けてしまうのが人の心なのだ。それに、攻略法を見てそのゲームがほしくなるかもしれない。そんな魅力が袋とじにはあるのだ。どことなく感じるワクワク感。それまでも楽しめる。大学受験は命のやりとりではない。害にならないのであれば「遊び心」も時として大切である。

  本格的な初見史料の解説をしながらも、形式ばらずに「遊び心」というオブラートで包んで提供する。おどろおどろしい字の「初見史料対策」というタイトルとその下のデザインを見て、その先には何が書かれているのであろうかと、どきどきしながらカッターで袋とじを切る受験生。初見史料だということだけで拒絶反応をおこすことなく、まだ見ぬ世界をのぞいてみたいという興味で初見史料に触れることができる。そんな効果が袋とじにはあるのである。

  人間は目的や理由の整った必要な動作より不必要な動作の方が多いといわれている。しかし不必要な動作がその人間の必要な動作を起こすスターターとなることも多い。「遊び心」はその潤滑油となっているのである。

11.直感的に使える参考書

 「土屋先生、この参考書のまえがきと使用法はどうしましょうか。」と聞くY氏。私は「まえがきは書きません。それと使用法は8行程度でまとめます。」と言い返す。すると、「わかりました。」とあっさり受け止めるY氏。

 数ヶ月とはいえ参考書製作に関して濃密な時間を過ごした間柄である。互いに気心は知れている。この参考書のクオリティーをもってすればもはや言い訳がましい「まえがき」など必要ない。また、参考書の製作過程で必要性の有無の判断には必ず合理的な根拠を示すということを徹底しておこなっていたので、まえがきを載せないことは私たちにとっては当然のことでもあった。

 製造者の「思い」はつくるモノそのものに反映されるべきある。つくられたモノは消費者が購入した瞬間に消費者の「願い」を実現する手段と化す。手段と化したものにまで製造者の「思い」を載せられても押し付けがましいだけなのである。消費者に評価されるモノの価値(いうなれば顧客満足度)というのはそんな身勝手な「思い」では高まらないことを製造者は心しておくべきであろう。実は「使い方」にも似たようなことが言える。

 慣れ親しんだゲームソフトの続編をやるときにゲームの説明書を読んでいる人間はあまりいない。やり方など分かっているからである。最初は多少とまどうが慣れてくれば昔の「感覚」でどんどん進めることができる。実はゲーム製作者の方もできるだけ直感的に操作ができるように表示の仕方やゲームの展開を工夫しているのである。それゆえ、そのゲームを最初に始める人間ですらさほど苦労することなくゲームを楽しむことができる。的や理由の整った必要な動作より不必要な動作の方が多いといわれている。しかし不必要な動作がその人間の必要な動作を起こすスターターとなることも多い。「遊び心」はその潤滑油となっているのである。

 参考書はどうであろうか。ありがたいほど丁寧に使い方などを記した説明書が2ページ以上にわたって書かれている。<よくでる><論述><センター対策><難関>等々、うんざりするほどの記号とその説明。正直、自分が受験生の頃はそんな箇所は読みもしなかった。
参考書は学習を進めていくうちにその使用法を理解できるほうがとっつきやすいし、使用法を知らないまま学習するより効果的である。さらに受験生自身が独自の使用法を生み出せればいうことがない。

 そこで購入者がこの参考書を購入してすぐに直感的に学習がはじめられるようにした。本に赤セルを入れておけば誰でも本の赤字の部分が重要部分であり、その箇所を赤セルで隠して学習するのだということが分かる。解説編が切り離し可能であれば単独でも学習できることに気がつく。解説編の中に史料掲載ページが載っているので、学習を進めていけば相互が関連付けられていることが分かり、自然と解説編を参照しながら史料学習を行うことができる。さて、本書を購入された方はどのように使用しているだろうか。

 丁寧に説明したはずの「使用法」。しかし裏を返せばそれが読まれない限り消費者の使い心地をかえって悪くする。それゆえ直感的に使えるモノが消費者の共感を呼びヒットするのである。

12.服に体をあわせる愚

 この参考書を執筆するにあたり、私と出版社との間でどのようなやりとりがなされていたのか。このメイキングを読んだ方にはご理解いただけたかと思う。しかし、こうしたやりとりができるということは異例であり、普通では考えられないことである。一般的にはどのようなプロセスで参考書が作られているのであろうか。

 通常、参考書の出版に当たってはカテゴリー(予備校講師に書いてもらうシリーズかどうか)を決め、体裁(色刷り、綴じ方、ページ数)、価格は最初から決められている。これは、本を出版するにあたってどこの出版社でも行っており、営業も交えた会議の場で執筆前に決まる。決定されたものにはその後の変更はほとんど不可能であり、ある出版社などではページ数が規定よりオーバーしたからといって著作者の了解なしにページ数を削るところもあるくらいである。そこには顧客のことなどまったく推し量ることのない、「既製服」が作られている。「既製服」ゆえに内容までもが既製化してしまうことも多い。「売れない本」のできあがりである。

 本来消費者が最終的に手にするモノは、それまでに何度も試作品を作り、内容や使い勝手などをモニターを使って確認しながら作られていく。これは多くの消費者にモノを購入してもらうためには多くの消費者が「欲しい」と思うものでなければならないからである。製造者は利益を得るために売れるモノを作ろうとするわけであるから、こうした作業は当然おこなわれるはずであるが、この作業を無視することによって自らを「モノが売れない」リスクにさらしている製造者も実は意外と多いのである。

 出版の世界では印刷上の問題からこうした試作品は作れないと考えられている。つまり、印刷所はそもそも少数部数の本を製作するための機械などなく、機械を動かす人手間もかかることからそれに見合う部数を刷り上げなければ割が合わない。小数部数製本もできなくはないが、料金はかなり割高となってしまうというのだ。しかし、こうした考えは、コスト積み上げによる価格決定を行うが故に生じる悪癖である。こんな価格決定やそこにあぐらをかいたモノづくりは、もはや時代遅れであることを私は既に指摘している。(価格が秘める戦略性を参照)  

 また、書籍は情報を文字で読み手に伝達するだけであるから、試作品を作る必要などないとも製造者は考えている。せいぜい、本の体裁の見本でおおよその本の形を見る程度いというわけである。文学書や最近流行のビジネスマン向け啓蒙書はそれでもいいだろう。しかし、学習参考書はどうであろうか。情報の内容も当然であるが、「受験生の視点に立った見易さや様々な学習環境おける使い易さ」なども十分考慮されるべきである。

 私の参考書とはいうと、カテゴリーこそ当初のままであるが、完成した本は当初のものとは体裁がまったく違っていた。経過を追ってみると、史料のみの参考書⇒CDをつける⇒史料と解説⇒史料と解説を切り離し可能にする⇒袋とじ初見史料解説をつける、となる。もちろん、こうした過程では必ず内容に関しても数回のモニタリングをおこなっている。解説と史料をつなげる一部やランク表示の色などは最後の最後に現役高校生の意見で変更されたものである。

 Y氏は、この作業中に何度も「途中からの変更はもう一度会議で了承を得なければなりません。こうしたことは今までには無いことなので、事前に言っていただかなくては…。」と私に要求したが、私はそれを聞き入れなかった。会議で了承を得ればできることなら了承をとればいい。なぜ変更しなければいけないのかという、正当な理由を聞かずして「形式」にこだわっていることにこそ本質的問題があるのだということに出版社側が気がつくべきなのだ。

 さて、結果はどうであったか。ネット購入者へのアンケートでは購入後も90%以上の受験生たちが必ず私の史料参考書を使用しているということが確認されている。もちろん、その際には必ずヒアリング調査もおこなっており、さらに使い勝手のよい本となるための意見も蓄積している。顧客満足度を落とさないようにするためにはこうした作業は怠れないのである。

 参考書の体裁において「既製服」を作るがゆえに次第にその内容も既製化していき、顧客ニーズとまったくかけはなれた「売れない」モノができあがる。「服に体を合わせろ」的なモノづくりは、製造者側が本来持つべき責任を放棄し、購入者のみにリスクを負わせる背信行為であったのだ。もはやこうした姿勢は市場の支持を得られないことを製造者は知るべきであろう。

 市場の支持を得られない「既製服」の垂れ流しにより極度の販売不振と返品で倒産した多くのアパレルメーカーの歩んできた道とまったく同じ道を現在の出版業界は歩んでいる。

 現実から目をそむけてはならない。

 出版業界は当事者が思うほど特別な世界ではないのだということを。

眠れぬ夜の土屋の日本史


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