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ここは予備校講師である土屋文明がさまざまなことに挑戦していくことを徒然に記したものである。
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受講生の苦痛 |
2008/10/18(Sat.) |
人により苦痛の感じ方はそれぞれである。 しかし、資格試験などの講義を受ける受講生にとっての苦痛は共通している。
それは、講師による授業の延長である。
私も予備校講師として多少の授業延長はあるが、受講生となってその苦痛が想像以上に大きなものだと改めて感じた。
以前私が出講していた予備校では、先輩達から「受験の日本史は暗記科目なのだから質問や延長をしない授業をする講師がいい講師(プロ)なのだ」と戒められた。当時、駆け出しだった私はより丁寧に教えた結果が質問や延長につながるのであればそれはそれで生徒のためになりいいのではないかと内心では反発していたのである。それでも、そうした環境の中で鍛えられたせいか、講義スタイルが延長のあまりない授業構成と進行になっていった。
今回、自分自身が受験生の立場となり数十回の講義を受講してみて講義延長が苦痛以外の何者でもないことを痛感した。延長はたとえ1分でも受験生には苦痛である。
eラーニングでは1講義時間の総時間数が画面に表示されている。つまり、その講師が1講義にどのくらい延長したかがはじめからわかる。10分、20分。最長では25分の延長となった回もあった。延長時間がはじめから分かっているにもかかわらず、その延長が苦痛に感じるのかといえば、その後の時間が就寝時間までの貴重な時間を奪い取ってしまっているからに他ならない。
受験生は誰しも限られた時間の中で勉強をしている。対象となっている講義だけではなく、他教科の講義の復習や予習、演習学習やなども限られた時間で行わなければならない。そうした時間が無慈悲に削られていくのである。しかも、その延長時間は講師もあせっているのか、説明が雑となることが多くこちらで余計な復習時間をかけることになっていく。「ここは一応読んどいて下さい。」といった表現が多くなるのも延長に入った時に言われやすい。「いい講師」にありがちな負の側面でもある。
はっきり言わせてもらえば授業が下手なのである。
資格試験などの予備校は講師が自分の教えたいことを教える場所ではない。そんなことは資格を取ろうとしている多くの受講者は望んでいないのである。懇切丁寧な焦点ぼけの授業のなかで何を覚えたらよいかを受講生は理解しかねている。無論そうした者にも知の扉を開き、学問たるものが何たるかを教えてやるのも結構なことである。しかし、そうしたいのなら初講日の前から受講生に講座、講師ガイドなどで詳細にその事実を知らせるべきであろう。そしてそのサービスの対価として受講生からお金をいただくことができるのか、企業の指示や目的に反する労働の対価としてそれを行う者に報酬を払うべきなのかを企業は顧客満足度及び経営ベースで考えなければならない。
農薬を使ったサラダが入ったハンバーガーに無農薬の有機栽培サラダを入れて客に出そうとしているのではない。ハンバーガーを食べに来た客にサンドイッチを出しているのである。しかもお客を長い時間待たせた上にハンバーガーがジャンクでサンドイッチは本質だと言い張る。
ただ、講師側だけに非があるとは言えないのも事実である。受講生のレベルを考えた講座回数、講座内容、授業構成のバランスが悪いのも原因だ。要は与えられた環境を言い訳として延長という苦痛や延長しないリスクを受講生に負わせてはいけないということではないだろうか。
暗記科目という苦痛から解放する授業を行わなければならない側の人間達がかえって受講生の苦痛を大きくしてしまっていることがあることに気がつかなければならない。 |
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講義と講師 |
2008/10/13(Mon.) |
前回、私は自説の披露や入試にでもしないようなことを覚えさせる講師をできるだけ避けることにしようとしたが、パソコン上のeラーニングの講義ではそれができなかったと述べた。
eラーニングの講義では講師を選ぶ選択の自由はないのである。通常、資格試験のeラーニングの講義を担当している講師は1人である。経営的には1人の講師に授業を行わせそれを配信したほうが企業としての利益率は高い。そこで無難な講師(アンケート上の上位講師)が実力派と称して画面上に登場するのである。進度は理解度の遅い受講生に合わされ、多方面からおしかりを受けぬ言葉を選び使い、受験偏重だと批判されないよう受験とは関係ないこともとりあげる(とりあげざるを得ない)。大学受験に置き換えれば衛星やインターネット回線を使った授業配信といったところであろうか。
そこには受験生を置き去りにした「無難な商品」しかない。そこにeラーニングしか受講できない受験生の悲運がある。私はeラーニング講義が安価なのはインターネットを使った配信システムによって価格が下がっているのではなく本来受験生のニーズにあっていないものを提供しているから安価な価格設定にならざるをえないのではないかと考えるようになっている。
eラーニングで同じ専門学校で講師を選べなければ他の専門学校の講師や情報、テキストを勘案して講師を選択しなければならない。これは大切な作業だが、現実的には講師の評判は大学受験予備校や旅行サイトの旅館のミシュランほど詳細ではない。これらは他人の評価でもある。また、同一の講師の授業を数回受講するのも困難である。
講師側も分かったもので、一度来たお客は逃がしたくないわけだから、初講日から自分の授業は受験に関係ないことも教えますとはそうは公言しない。
こうして教える側に都合のいい講義がいい講師によって毎年繰り返されていくのである。
いい講師が必ずしもいい講義を行っているわけではない。いい講義を行っているからといって必ずしもいい講師とも限らない。いい講師を捜してはいけない。自分に合いそうないい講義を選んでもいけない。そこには必ず自分の主観と企業の思惑が入り込んでしまう。
最も多くの生徒の成績を上げることができる合理的な講義とそれのみを追求している講師を探すのである。 |
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望まれる知識 |
2008/10/12(Sun.) |
私は資格試験専門学校を選ぶ際に、情報以外に選択基準にしていたものがあった。
それは社会保険労務士試験の合格に「必要な知識だけ」を教えてくれる講師がその専門学校にいることであった。当たり前のことだと思われるかもしれないが、世間にはまだ短期間で傾向と対策、テクニックで合格した人を多くの時間と苦労して合格した人と比べて蔑むきらいがある。
大学受験を含めた資格試験では「心・技・体」を(あってはほしいだろうが)その合格基準にしてはいない。社会保険労務士の試験科目は10科目。試験まで4ヶ月足らずといった私には合格基準にしていないものまで、まして限られた講義数で無理に「懇切丁寧に」教えてもらう必要などない。むしろ、それをやられることによって合格に必要な知識を自分自身で網羅しなければならないならば、何のために資格試験専門学校があるのか、その存在理由が分からない。これは大学受験学習にもいえることではないだろうか。
資格にふさわしい資質がすべて備わるかどうかは資格試験の学習段階では関係がない。学習中にある種の使命感は持つだろうが、(実際私も学習中に多くの方に年金を含めた社会保障の制度を分かってもらおうという気持ちにはなった)、資質というのは資格を獲得した後の社会的立場や遵法精神、そしてなによりビジネスとして収入を得るためにいずれ必ず身につけなければいけないものである。「悪徳○○」といった資質に欠ける輩は皆テクニックで資格試験を合格しているわけではない。
教育には「望まれる知識」の学習を促進する意図的な働きかけの諸活動という意味がある。「望まれる知識」はその時期の子供の置かれた状況により異なるはずである。ならばそれを教える人間や内容もその時期や状況で異なって当然である。教える人間にすべてを望むことは教育の名の下に最も必要な時期の「望まれる知識」が薄められてしまう危険があることを覚悟しなければならない。自身ではなく自身の子供に、である。
コーラが飲みたい子供に成長も大切だからと牛乳を混ぜて飲ませてみればいい。すぐに答えがでるはずである。 子供のたった1年に満たない大学受験期において「望まれる知識」とは何であろうか。知識に偏らない普遍的学問であろうか、人間教育だろうか。
私は自説の披露や入試にでもしないようなことを覚えさせる講師をできるだけ避けることにした。
しかし、私の学習するeラーニング講義ではそれができなかったのである。 |
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情報はどこにあるか |
2008/09/21(Sun.) |
まず社会保険労務士の試験とはどのようなものであるか。受験科目とその内容、難易度。また合格ラインといった基本情報は集めておかなければならない。内容と難易度の把握は重要である。これらを把握せず、やみくもに学習を行っても効率が悪いだけである。この点は私が常日頃日本史学習で生徒に言い続けていることだ。
しかしである。
この情報収集をやみくもにおこなっても、かえって学習に取りかかるまでの時間を浪費してしまう。受験情報誌を買うことも一つの手ではあるが、受験情報がすでに集まっている場所で情報を得た方が手っ取り早い。
受験情報はどこに集まっているのか。
それは言うまでもなく社会保険労務士の資格を取らせる専門学校である。大学受験に置き換えるならば予備校ということになる。
最初に行うことは自力で受験情報を集めることではなく、有力な受験情報や分析力をもつ「予備校の情報」を収集することである。そのための時間は惜しんではいけない。私達はこの時、まさに決められた時期までにゴールしなければいけない最良の学習ルートを選んでいるのである。
私はいくつかの資格専門学校が行っている説明会に足繁く通った。資格専門学校に集まっている(集める努力を欠かさない)情報を惜しみなく提供している学校から必要な情報源を得るためである。これは大変効果的であった。自分の欲する情報をもれなく確実に収集できる。これで安心して学習に取りかかれるのである。
私はインターネット上の第三者の評価をまったく信用しない。判断材料にすらしない。なぜならよりよい情報を共有しようとする善意の人間よりも、無対象への恨みをもち悪意に満ちた情報を広めようとする非社会的な人間の「延べ数」が多いからである。
ネット上の情報の選別に時間をかけるより直接足を運んだほうが結局は短時間で目的を達成できる。あふれる情報を選別する能力を持った人間は存在しない。そう思われている人間はもとより情報を選別などしていないのだ。彼らは自身で直接働きかけて得た情報のみを信じているのである。売れない偽占い師の言うことを信じる人間はいない。重要な選択をする際に見ず知らずの人間の無責任な意見を参考にすることは自身の人生を非常に大きなリスクにさらすことになる。
受験生を持つご父兄に申し上げたい。
あなたはご自身のみならず、最愛の子の人生をもリスクにさらしていないだろうか。 |
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教育飢餓 |
2008/08/30(Sat.) |
子供の学力低下に歯止めがかからない。
一週間の新聞紙面にこの話題が載らないことはない。 若年者の凶悪犯罪でもあろうものなら、教育をもてあそぶ輩の格好の材料である。陳腐な議論の俎上に載り、自称教育を憂う人達のありがたみのないお経を聞かされる。
私達は慣れてしまった。 重大な問題も我が身に起きていなければ無感覚となっていく。
衛星を使った有名講師の授業配信。eラーニング。比較的安価な個別指導。昔とは比較にならないほど分かりやすい参考書の数々。懇切丁寧な受験指導。たとえ受け身であっても子供の学力は低下することはない。それほど教育環境は充実している。
しかし今や撓わに実る成熟した教育環境の果実を食べても子供の顔色はさえない。否、そうした果実を食べることができないほど子供が衰弱しているのかもしれない。
教育飢餓
私のここ数年来の違和感がこの一言につきるのである。
何故教育飢餓が起きるのか。はっきりとした結論を導き出すことは不可能に近い。それほどこの10年間の日本社会の変化、とりわけ子供を取り巻く環境の変化が激しいのだ。 変異を繰り返す悪性のウィルスに有効な治療薬などない。
受験の暗記科目の授業として現在でも画期的であると言われている私の講義をもってしても、それを学習する受験生の環境が変化しては十分な学習効果を生み出せないかもしれない。私はそう思い始めた。
もちろん現状を座視してきたわけではない。受験生の学習効率を高めるため日本史学習CDや史料参考書を製作し、その改良に日々を費やしてきた。
しかし違和感はなくならない。
そこで私は従来の学習法を検証し、現在の受験生に有効に通用するものであるかどうかを自分自身が受験生の立場になることで確かめてみることにしたのである。変異するウィルスに有効な治療薬を組み合わせて変異する時期にピンポイントで投与すれば効果があるはずだ。
我が身を歪みの中に投じて。
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葬列に見送られる死者 |
2008/08/29(Fri.) |
東京の観光名所、浅草の浅草寺。
外国人らの観光客で賑わう仲見世のひとつとなり、馬道通りはいつもどおり休日の都会の静けさを保っている。
その馬道通りの途中に第40回社会保険労務士試験の試験会場がある。
東京産業貿易センター台東館。その4階〜5階が試験会場である。1フロアは受験生120人で単位をなす6区画に分けられている。当日の欠席者を差し引いても2000人の受験者がいる計算である。
午後4時40分。休憩もない午後の3時間30分ぶっとおしの8科目、80問の正誤択一試験が終わった。疲労感とも絶望感ともつかないものがすべてに優先する。家路を急ぐ押し黙った受験生の足取りは重く、午後の途中から降り出したのであろう小雨を気にすることもない。資格専門学校に雇われた解答速報を配布するアルバイトだけがとってつけたようなねぎらいの言葉を受験生にかけ解答速報を半ば押しつけ配っている。
そして葬列に見送られるあまたの死者が浅草駅までゆっくりと歩いていく。
合格率8%。
社会保険労務士の合格率である。国家試験の中でも有数の難関レベルの資格試験。
私が何故この試験を受験しようと考えたのか。一受験生としてこの4ヶ月間で私が何を学び、何を教訓として得たのか。
受験生である皆さんに包み隠さずお話ししよう。
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